発達障害グレーな文字書き屋さん

不器用なりの幸せな生き方を探る旅

価値観をシフトすると風景が変わる

お久しぶりの投稿になります。
ここ数週間で色々と価値観や感じる風景が変わったので、記しておこうと思います。


このブログを書き始めた時、「同じような状況にいる人のヒントになるようなブログを書きたい」と思ったのは覚えています。
ただ、その時は今ほど穏やかな気持ちではなく、相手にされなくなった世界で惨めな気持ちを抱えながらもがいていました。


だから記事を読み返しても、どこか苦しい気持ちが滲み出ているように思います。


その気持ちが変化したのは、「今の仕事を降りよう」という気持ちになったことと、「住む環境が変化することになった」……という2つのことが理由です。


*****


私はずっと男女の恋愛をテーマにした女性向けの小説とシナリオを書いてきました。
でも、アラフィフになり、どうにも「恋愛だけ」には興味が持てなくなり、もともとそんなに人気もなかったのもあってここ数年で市場価値が底辺になってしまったのです。


その「必要とされない世界」に執着するのは、とても苦しくて惨めでした。


そんな時、子どもの進学の関係で海沿いの街に引っ越さなくてはならない状態になりました。
引っ越しは苦手なのですが、その海沿いの街は私を確実に癒してくれるという直感が働きました。
慢性化していた頭痛がその場所へ行くとなくなり、呼吸が深くなるのを感じたのです。


そのころの私は、崖っぷちだった仕事が苦しくて、焦燥感とイライラが止まらなくなっていました。
更年期障害は始まっていましたが、気が狂いそうなほどの焦燥感は明らかにストレスがマックスを超えたせいだと思います。
その不調がきっかけで、仕事を思い切って手放すことを決意しました。
私が命懸けで仕事を続けても、そこで得られる報酬は「薬代」「整体代」「ヨガ代」など、自分をケアするもので消えていくのです。
なんのための仕事か……。
少なくとも自分と家族の生活を心から豊かにするものではないなという感覚になりました。


*****


そんな経緯があって、今の仕事をゆくゆくは引退しようと決意するところまできました。
仕事をやめると決意して数週間で、だいぶ調子が戻りました。
(プラスアルファで、漢方薬とヨガのおかげもあります)


私を苦しめていたのは「自分を精神的に貶める環境」だったように思います。


私が潰れたって困るのは家族だけです。
仕事の関係者は、代わりの人を探せばいいだけなのです。


私が存在している意味は「安く執筆を引き受けてくれる便利なライター」ということだけなので。(悲しいけどそれが真実)


それを考えた時、「ああ、今の仕事は自分の心と命を削ってするものではない」と思いました。
私の「物語を執筆する仕事への執着」が私を追い込んでいたのです。
自分が他の人よりも劣っていると感じてきたコンプレックスがあったので、「小説を書くことを仕事にしている自分」が消えてしまうのが怖かったんでしょう。


でも、それを手放したって私は私です。
何も価値は変わらないし、もし変わるとしてもそれは「周りから見た私」です。


私自身が「小説を書いていなくても私は私だ」「もし二度と書けなくても、それで自分の価値が下がったりはしない」と信じるだけでいいわけです。


理屈でわかっていても、実感するのには時間がかかりました。
ただ、焦燥感でおかしくなりそうになった時、「自分を大切にしていない」ことに心の底から気づいたんです。
私を守ろうとする自身のセイフティが働いたのかもしれないですね。


私を攻撃するのも私だった。



私を守ろうとするのも私だった。


つまり、「自分をどう扱うかは自分次第」なのは間違い無いなというのが今の私の結論です。


自分を大切にすると何が変わるかというと、自分の心身の健康面はもちろんのこと、自分が側にいたいと感じる人の種類が変わります。


なので、自分に直接影響を与える人が変化していくわけです。


すると自分の内面が変化し、変化した自分を見る周りの反応も変わるんです。


まだ決意をしてから1ヶ月かそこらですけど、その変化は感じています。
これからも「自分を大切」にしながら、「丁寧に感謝して生きる」ことをベースにゆっくり生きていきたいです。


なんでも「当たり前」ではないので、意識すればいつだって感謝の気持ちは湧いてくるなと感じます。
でも、それに気付くには「ゆとりを持つ」必要があるなとも思います。


特別な人がそうなるわけでなく


人間はどんな立場の人も、どんな環境の人も


自分軸で生きることで


世界にただ一人の自分を感じられるんじゃないかな…と思います。

嘘がないだけで呼ぶものがある


ブログをやっていてもやっぱり「数字」って気になってしまうのね、と自分で呆れる。


アクセス数とか、ナイスの数とか。
なんだかんだで数が多いというのは「多くの人がそこに共感している証」でもあるから、当然ブログをやっている人はそこが気になるだろう。


アクセスを稼ぐためにアップした記事に片っ端から「いいね」(ここではナイス)を押してしていく人もいるから、やっぱりアクセス数って今の情報社会ではとても重要なものなのは間違いない。


ただ、数だけ気にしていたら結果的に「意識されたつまらないもの」になるのが見えてくる。
だからやっぱり「書きたいことを書こうよ」と自分に言って聞かせたりする。


なんだかんだで、人間は「信頼」が大事。
”期待通りのものが得られる確信”って、誰だって求めるものだ。
例えば、大好きな漫画家さんがいたとして。
その人から生み出されるものが自分の期待を外さないから皆さんファンを続けるのでしょう。


ブログも同じかなと思う。
そのブログを書いている人を信頼しているから、「おすすめ書籍」なんかも買うわけで。
それがただのアクセス稼ぎだけのための酷いものに変化していったら、やっぱり自然に信頼は落ちてしまうようにも思う。


じゃあ、どうしたら自分らしい力まない記事が書けるようになるか??
まずは、力の入った自分から、力の抜けた自分に切り替えが必要だ。


力が抜けて楽になるのってどんな時か?


私の場合、大自然の中に入ることが最も効果的。
だけれども、毎日ってわけにいかないので、外の媒体から開放感をお裾分けしてもらうのがいいかなと思う。


動画でも音楽でも書籍でも、媒体はなんでもいい。
(私の場合は、先日ブログにも書いた「ヒロシさんのキャンプ動画」だったり、「メイク動画」「猫動画」「踊ってみた動画」などなど……色々)


多少、売れるための策意があったにしても、


ありのままで 気取らず それが好きだから


やっているものを伝えているもの。


それが元気をいただく源なんだなと改めて感じる。


嘘や欺瞞って、案外皆無意識の部分で察知していて。


「目立ちたい」「注目されたい」だけのものって、結局見破られちゃう


どうしたらいいかまだわからないけれど、自分が嘘のない日々を過ごすこと」を意識したら、そこから生まれるものも自然に力の抜けたナチュラルなものになるんじゃないだろうか。


そう信じて、次に生まれてくるアイディアを信じていこうと思う。


なのでアイディアが出ないときは無理には書かない。
これも大事かもね。

社交辞令ってなんのためにあるのか?

本日3回目の投稿です。
どうにも1日モヤっとしていたのですが、「やっぱり相手がおかしくない?」と思ったことがあるので記しておきます。


社交辞令が通じにくいのは発達障害あるあるだと思うのですが、今回のはあんまりにも酷かったのでやや茫然となっているところです。


仕事のことになります。


取引先A会社とは、私が数字を取れないのを理由にほぼ縁切りされておりました。
が、過去に書いた案件をどうしても利用したいことが出てきたらしく、連絡がありました。


「今回は書き加えも可能です。ご希望がありましたら相談してください」


と、はっきり書いてありました。
なので、私は「書き加えたいのですがいいですか?」と申し出ました。
するとA会社の担当さんが「えっ、書き加えるとか困るんですけど」という内容のメールが慌てて戻ってきたのです。


「相談してください」というのは社交辞令だったようです。


縁切りした相手にテンプレメールをしただけなのに、マジレスされて驚いたのでしょう。


今回のことで改めて思いました。
こんな無駄な社交辞令を書く必要あるでしょうか???
もし相手次第ではOKな内容だとしたら、せめて私にはその一文を抜いて送ってくれた方がよくないでしょうか。


うーん。


やっぱり、私が空気が読めないだけだと言われちゃうのかしら。


過去に、何度も「表向きの体裁」で言われている言葉を真に受けて恥ずかしい思いや悲しい思いをしてまいりました。


「ご飯食べに行こうよ」
「遊びにおいでよ」
「久しぶりに会いたいねー」


この3つはだいたい社交辞令なので、「そうだねー」と答えて流すレベルにまでは精進しましたが……


まだまだ社交辞令の認知レベルは高めないといけないんでしょうかね。
難しいし、無駄だな〜と感じます。
傷つけないための優しい嘘だと解釈されることもありますが、私のような人間には「不必要な思いやり」だと思います。
私の中では「やんわり真実を述べる」もしくは「まるっきり述べない」の二択です。


似たようなことで悩んでる方、いらっしゃいますかね。
本当に今回もまいりました……(爆)

意識が低い方が楽な件について

なんでも言い切ること。
どんな意見でも自信を持つこと。


これが説得力を産みますよね?


あとはブレないこと、とか??


今の私にはちょっとハードルの高い場所です。


なぜこう思ったか。
なんとなく今朝書いた記事が、自分で書いておいて「どうもやな感じだな」って思ったのです。


だからその記事は一回非公開にして、こっちをアップします。


私は今、正直、あまり調子はよろしくないです。


誰かからの否定とか、誰かかからの無視とか、に弱いです。


成功している誰か、輝いている誰か、を見るのも時々辛いです。


それでも弱っていく両親を励ましたい。
自分の味方でいてくれる夫と息子を守りたい。


そのためには自分は「どうにか生きて」いなければならず、「できれば笑顔で暮らす」ことが望ましいです。


本当の自分はこんな感じです。
意識低いです。
それでも美学みたいなものは一丁前に持っていて、それが時々暴走して嫌な感じになります。
ブログで発信してみて、なんとなく…「あーちょっとカッコつけたな」なんて思うときがその暴走の時です。


今日最初のブログを読んだ方がいらしたら、恥ずかしいな〜
まあ、そういう日もあるってことで。


また力を抜いてやっていきますね。
今日もお疲れ様です^^

生きづらい人へのエール

私にとって最もやってはいけないこと。


それは「自己表現を妨げることをしてはいけない」ということ。
つまり「自分らしさを否定して生きてはいけない」ということだ。


元々、私は20代でパニック障害を発症させ、その後に産後うつなども経験している。
もやっとしていた不快感が表に症状となって出たのだと思う。


その結果、自分が「定形の人とは違う」ことを嫌でも知るようになる。


「一般的に」「常識的に」「普通は」という言葉が大嫌いになり、色々自分を束縛してくるものを避けるようになっていった。


なのに、結果的に選んだ自宅での仕事は、自由だった私の表現を恐ろしく縛りつけるものだった。
お金になる仕事ほど、自分らしい表現を許さない。
なぜなら、そこには「大衆が共感しなければならない」というルールがあるからだ。
だからその世界で量産できている人は「職人だな」と感じている。
皆が喜ぶものを察知し、それを適切な表現で大量に排出できるというのは職人だと思う。
もちろんこれは一つの才能だし、それに恵まれていれば私もそうしただろう。


ただ、私は職人にはなれなかった。
かなり修行は積んだつもりだが、どうしても「マニュアル化された文章」を書くのが苦痛で息ができなくなった。


私は普段、「ほとんどの人があまり考えないこと」をよく考えている。
だから文字で表現することができても、それは誰もが共感するような代物ではないのだ。


残念ながら、私はお金になるような作品はこの先書いていくことはできないかもしれない。
私という個性が稀であれば稀であるほど、共感されないものだろうから。
でも、メンタルギリギリまで追い詰められて悟るものがあった。


「自分の個性を否定するものに従属する必要はない」


これははっきり言える。
なぜなら、自己否定を突き詰めすぎると生きていることが難しくなるからだ。
これはここ数年苦しんできた末の結論だ。


体調がおかしくなり、じわじわとせめぎよる心の不調も増大していく。
先を考えたら、今の症状を改善させるには生き方(&考え方)を変えるしかない。


どんなに社会と適合できていなくても、どんなにうまくいかないことがあっても。


『あたなは尊重されるべき、オリジナルでユニークな個性と魂を持った、大切な人』


これを生きづらいと感じている人全てに感じてもらいたいなと思う。
もちろん私も心にこれを留めておきたい。


社会通念は大勢の人間をまとめるのに必要なことかもしれない。
でもそこに属せない感覚を排除するのは暴力だとも思う。


誰かの自己満足のために。
誰かのマウンティングのために生きているわけじゃない。


稼ぎにならない人間だからといって否定されるべきじゃない。


(”べき”と言う言葉はあまり使いたくないのだが、それは強く感じるので今回は使わせていただく)


頑張って生まれてきた自分を褒めて生かしてあげよう。


一人でも味方がいてくれたなら、その人を大切な宝物として大事にしていこう。


これは私へのエールでもあるので、力強く記しておきたい。